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土曜の朝、玄関のチャイムが鳴る。
新聞の集金かと思いきや○○○の塔の方々である。
「今日は奉仕活動で参りました。聖書のお話を聞いていただけないでしょうか」
声の様子から妙齢の女性であることは分かった。
この場合二人の女性で家々を廻るらしい。
う〜ん 玄関に出たい誘惑に駆られるがそこは良識ある社会人の私としては興味もないのに
彼女達の時間を無為に使わせるわけにはいかない。
心を鬼にして言う
「間に合ってます」
それからしばらくしてまたチャイムが鳴った
「スミマセーン ワタクシタチハ キリスト ノ オシエヲ ヒロメニ キマシタ」
○○○○教の方々だ。
おおお おのれ伴天連 成敗してくれようか エエ加減にせえよ。
風呂上りで腰にタオルを巻き、お尻の痒い所にキンカンを塗って扇風機の前にいた私は
そのままの格好で玄関に出ようとして思い留まった。
まてよ 日本男子たるものこのような格好では武士として名折れだ。
慌てて一着しかない冬用礼服に着替え玄関に出るとそこには誰もいなかった。
テレビで「新婚さんいらっしゃい」を観ていた。
むかし付き合っていた女性が
「結婚したらこの番組に出るんが夢なんよ〜」とおっしゃっていた。
その時、わたしは即座にこの女性と別れようと思った。
今ではその決断は正しかったと確信しています。
ピーンポーン また来客だ。
新聞の集金だ。そこで私はその方に質問をした。
「御社の記事はどうしていつも日本が悪いという記述ばかりなのですか。外国の落ち度は指摘しないのですか」
と聞くと
「何を言ってるんですか。日本は外国に侵略した過去の罪を消すためにまだまだ努力しなければなりません。
私どもの新聞の記事がおかしいと思うなら購読をお止めになったら如何ですか」
「何をおっしゃるんです。実は私はマゾなのです。痛めつけられることに快感を感じているのです。日本中あなたの紙面で痛めてください」
「分かりました。アナタのような読者がいることを私は誇りに思います。」
二人は固い握手をして年内の契約書に認印を押した。
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米国の良識と言われる週刊誌だが勿論私は日本語訳の方を読む。
世界の情勢の片鱗を知るには適当な週刊誌だが、日本向けであるから最初のコラムは日本についての記述が占めている。
書いているのは日本の駐在員だが白人独特の独善的な部分も若干みえる時もある。
つまり世界基準とは自分達基準という考え方だ。
最近の記事はやはり中国に関する物が多い。それだけ世界に影響を与える大国ということだ。
対して日本の中国の記事といったらサッカーでブーイングされたとかのレベルで、この国がわが国に与えている影響や今後の関係については
あえて避けているように思えてならない。
援助金で作ったミサイル基地が全部日本に向いているとか、尖閣諸島の問題も一部有識者が警告しているだけで北朝鮮の問題も
そうだし、韓国にいたってはくだらんテレビドラマの話ばっかりだ。
とにかく最低この雑誌だけでも読んで欲しい。少しは世界が分かるぞ。
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東大で教授をしていた竹内均が退官して作った月刊誌 それがニュートンである。
科学雑誌と称しているが内容は文化文明を含む広範囲の雑誌だ。
彼は先ごろ他界したが、その意志は受け継がれクォリティの高さはそのままだ。
頁を開くと絵や写真で非常に見やすく分かりやすい。
ただそれでも私は相対性理論は理解不能だったが。
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渡辺茂夫
昭和十六年(1941年)東京生まれ
四歳半からバイオリンを習う。
昭和二十三年(1948年)七歳
第一回リサイタル
昭和二十八年(1953年)十二歳
第六回リサイタルにて自作曲発表絶賛される。
この頃までに国内殆どのオーケストラとの共演を果たし国内外とも彼の才能は驚嘆を持って迎えられる。
昭和三十年(1955年)十四歳
ジュリアード音楽院から無試験での入学許可通知が来る。米国に留学。
昭和三十一年(1956年)十五歳
教授会満場一致で史上最年少の最高奨学生に選出される。
昭和三十二年(1957年)十六歳
精神的不安を訴える
十一月二日 自殺未遂
昭和三十三年(1958年)十七歳
一月帰国入院
三月退院 以後療養生活
彼を知ったのはテレビのドキュメンタリー番組の中だった。
白黒のフィルムで一人の少年がオーケストラをバックにバイオリンを独奏していた。
演奏技術に感嘆する観衆を映した後、場面は一人の男を映し出す。
その男は自分が誰かも分からず麻痺した四肢を支えられながら食卓につこうとしていた。
その男こそが渡辺茂夫の姿であった。
なんという悲劇なのだろう。何で自殺をしたのだろう。
天賦の才を授かり世界に高名を轟かす寸前であったのに。
解説書も事実の列記のみで、あえてその事には触れない。
ただ才能という物は持てる者を幸せにするだけではないという事か。
私も多くは語れない。しかし戦争がなかったら渡辺は間違いなくヨーロッパの音楽学校に
行っていただろう。
そうなったらまた違う結果も出たかもしれない。
しかし才能は永遠に失われた。
残された私達は彼の残した演奏を聴き偲ぶしかない。
二枚組みのCDだが途中ラジオのインタビューに答えている彼の肉声も収録されている。
それを聞いて余計に心が乱される。
とにかく なぜ という言葉しか発しえない。
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